『マドモアゼル』('66) 性的神格化と神話の崩壊

こんにちは!こんばんは!おはようございます!ルートです( ・∇・)

 

もう1人の自己紹介はまた後で、、遂に批評書き始めますよ〜〜

 

さて、初回は音楽にしようか、映画にしようか、小説にしようか・・・と結構悩んだんですけど、今回は昨日ライカにおすすめしてもらって見た『マドモアゼル』('66)について書きたいと思います!

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**以下ネタバレ注意!!**

 

『マドモアゼル』はトニー・リチャードソン監督、ジャン・ジュネ原案の1966年の英仏映画です。

〈あらすじ〉

ある女性がフランスの小さな村の水源を壊す。その後で花を摘むのを見た老人に「花嫁が冠に使う花を折ってはもう実はならんな」といわれる。皆からマドモワゼルと慕われる女性は小学校の教師で婚期を逃している。村に戻ると、3週間に2度の火事と洪水が起きて大騒ぎだ。マドモワゼルが警察でタイプを手伝っていると犯人は引越してきたイタリア人の木こりマヌーだと噂される。マヌーは事件のたびに英雄的に働いているとマドモワゼルが強く否定する。長男のブルーノはマドモワゼルに教室で「汚い」などとイジメを受け、放火に使った紙切れから犯人が分かるが、証拠を燃やしてしまう。

マドモワゼルは汗まみれに働くマヌーの姿を盗み見していたが、ある時、不注意から失火し、マヌーが懸命の救助をする姿に惹かれる。その後は故意に放火や洪水を引き起こし、飲み水に毒を入れる。葬儀を横目に授業で殺人鬼ジル・ド・レと聖女ジャンヌ・ダルクの話をする。家畜が全滅し、毒物の無水亜ヒ酸を持っている証拠がないのに村人はマヌーが犯人だと信じる。マドモワゼルがマヌーを誘惑して野原で狂乱の一晩をすごす。朝、マヌーが「明日息子と二人でこの村を出ていく」という。ボロボロの服で村に戻ったマドモワゼルは村の女に「あいつにやられたのか」と聞かれ、「ウィ」と答える。マヌーは村人のリンチを受けて死ぬ。マドモワゼルが皆から惜しまれ、車で村を出ていくが、その姿を見たブルーノは唾を吐く。*1

 

ウィキの引用ですけど、あらすじはだいたいこんな感じですね。

要はマドモアゼルと呼ばれ、村人から純粋で立派な人だと認識されている女性がイタリアから来た男に欲情し、火事や洪水を起こすが、男に軽くあしらわれた妻は村人を誘導してマヌーを殺させた。という感じ。

 

閉鎖的な村において、「マドモアゼルは立派な教師で、男も作らず純粋でいいね〜」というレッテルを貼られ性的に抑圧されてしまったマドモアゼル。洪水を起こすのはまさに抑圧された性欲の解放を暗喩していますし(エッチくてごめんなさい(´ε` ))、放火というのは欲望の炎が燃え上がるということを意味しているのでしょう。

この狂った行為は周囲の目により長年抑えこまれた欲情の爆発として捉えることができると思います。

そんな映画は他にもあります。例えばミヒャエル・ハネケ監督の『ピアニスト』

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この映画は、スーパー過保護の母親を持つ中年のピアノ教師が、歪んだ性欲を若い教え子にぶつけるという映画ですが、ところどころ爆笑してしまう(私だけか?w)映画です。

『マドモアゼル』も同じテーマの話と言っていいでしょう。『ピアニスト』の場合は手コキしておいて、射精寸前に我慢させるという特殊性癖を爆発させていましたが、『マドモアゼル』は荒野で靴をベロベロ舐めたりします。動物的な欲求です。マヌーが蛇を飼っていますが、これはキリスト教的な「欲」のメタファーであると同時に、作品全体に動物的なイメージを含まる効果を持たせている気がします。

 

 

さてここからタイトルの性的神格化と神話の崩壊ということについて書きたいと思います。この作品を鑑賞して私が一番最初に感じたことは、これ現代の日本社会をめちゃくちゃ如実に表してるんじゃないかということでした。

どういうこと?って思われるかもしれないですが、ちょっと思い出してみましょう、最近のニュース。

ベッキーがゲスと不倫したとき、なぜ世間はあんなに叩いたんですか?不倫はよくないかもしれないですけど、それ本人達が解決すればいい問題で、世間には関係ない問題じゃないですか。結構昔の話ですけど、AKBの誰か(詳しくないから知らないd( ̄  ̄))が恋愛したら、丸坊主にしましたね。誰かが強制した訳ではないですけど、そういう反省を求める風潮があったから、行ったことでしょう。でも恋愛くらいしますよ!年頃の女の子なんですから!

これってまさに『マドモアゼル』ですよね?清純派タレントは不倫なんかしないはずだ!アイドルは男とセックスなんかしないはずだ!という女性性のステレオタイプ化、不純なことはしないはずだという神格化がなされてしまっているのです。

もちろん、ベッキーの件はマスコミの過剰な報道やゲスのゲスさが際立ち、日頃のストレスを発散しようと群がった輩がいたでしょうし、AKBは普通に恋愛しただけで、まさか野原でヨツンヴァインになって犬のように男の足をベロベロ舐めちゃいないでしょうけど、まさに『マドモアゼル』が表現していることは同じことなんじゃないでしょうか?

 

「女性というのはこうである!」=「マドモアゼルはこうである!」という図式と完全に一致するんじゃないですか?『マドモアゼル』で大衆の餌食になったのはマヌーでした。しかし、件の真相を知ったら大衆の怒りと暴力はマドモアゼル に向けられていたんじゃないでしょうか?

純潔神話が崩壊した時、大衆は魔女狩りのように攻撃を始めます。おかしな国ですね〜不純だから土俵には上がるなと言っておきながら、純潔を求めるんですΣ(・□・;)確か黒澤明の『羅生門』もこんな構図でしたが、あれは女性側が完全にマウントを取るんですごいっす!さすがっす!

まさか60年代の映画を見て現代のジェンダー観の在り方、大衆の心理を考えさせられ流とは思いませんでした。

(ちなみに原案のジャン・ジュネは素晴らしい小説家で『泥棒日記』という面白い小説があるので、いつか書こうと思います!)

 

【参考文献】

町山智浩『トラウマ映画館』(2013)集英社

Wikipedia 「マドモアゼル」

https://ja.wikipedia.org/wiki/マドモアゼル_(映画) 閲覧7月7日

 

次はこの映画を紹介してくれたライカに何か書かせます(^。^)

 

ルート( ^ω^ )